取材経験/各種講演
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京大時計台占拠
全共闘の学生が、京大の時計台に立て籠もり、火炎瓶を投げたり、投石したりして機動隊と激突、MBS大型中継車で取材中に、学生の投げた石で、フロントガラスが割れました。
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日本万博博覧会開会式
3月14日から9月13日まで、大阪千里丘陵で日本初の万国博覧会が開催されました。「人類の進歩と調和」のテーマで、アメリカ館には月の石や宇宙船が展示され、長蛇の列ができました。6451万8770人という多くの観衆で賑わいました。
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天六爆破火災
1970年 大阪天神橋6丁目付近で、下水工事中に誤ってガス管っを破損、漏れ出たガスに、車のエンジンの火花で引火、大ガス爆破事故が発生しました。死者79人、重軽傷多数が犠牲に成りました。現場から生中継レポートしました。
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髙松塚古墳発掘
古墳の発掘にあったていた関西大学の学生らが、殆ど変色していない、極彩色の壁画を発見し、大きなニュースになりました。
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千日ビル火災
当時は携帯電話等なく、仕事終わりで麻雀をしていた時、ポケットベルが鳴り、すぐに現場に駆けつけました。9時前でしたが、燃え盛るビルから、ホステス等が次々に道路に飛び降りす凄惨な現場に、足がすくみました。
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北陸トンネル火災
火災のあったのは、いわゆる雑居ビルで、8階にあった「アルサロ・プレイタウン」で逃げ遅れた人が、118人も亡くなりました。
ホステスや客の飲み逃げを防ぐため、避難階段には、段ボール箱が山積みされていました。 -
北陸トンネル火災2
1972年は、事件事故が多発した年でした。北陸トンネル内で列車火災が発生し、現地にヘリコプターで取材に向かいましたが、煙がひどく救助隊も中に入れず、30人が窒息死し、714人の重軽傷者をだしました。
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ベトナムハノイ取材
長い長いベトナム戦争が終わり、ハノイに入りましたが、人々は元気で戦争に勝ったのを喜ぶ姿もありました。米軍の枯葉剤が、子供に大きな傷跡を残したのがわかるのは、何年も後の事です。
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冒険家植村直巳との出会い
1978年冒険家「植村直己」さんい会ったのが、大きな私の転機となり、彼を追いかけたどくめんたりー「北極点を超えて3000キロ」で芸術祭優秀賞を頂きました。植村さんは、この後がアラスカマッキンリーに単独登頂後消息不明となり、いまだに見つかっていません。
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芸術祭大賞受賞
1979年「植村直己北極点を超えて4000キロ」孤独の165日」が表彰を受けました。
作品の殆どのフィルムと音声は、犬ぞりで単独走破した、植村さん自身が、8mmとマイクロカッセトで収録したものを、再構成したものでした。 -
福島第一原発事故
当時、敦賀産の魚や野菜が全く売れない深刻な風評被害をもたらす一方、国が一元的に行うべき原発の安全規制の在り方に一石を投じ、地元自治体が監視、関与を強めるきっかけとなった。福島第1原発事故でも海や大気中への放射性物質が放出され、モニタリングや情報公開の在り方、風評被害対策などがクローズアップされている。敦賀での教
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原発事故のレポート
1981年 関西電力敦賀原子力発電所で起きた「放射性廃液漏れ事故」を取材し、スタジオに戻ってテレビで解説する私、田島記者です。
アナログ録画のテレビ画像再撮のため、見にくい事をお詫びします。 -
旧満州国の中国残留孤児
日本が中国に満州国を作り、首都として新京特別市を置いていた町で、多くの中国残留孤児がここで暮らしていました。この前年から「中国残留孤児」の訪日調査が開始され、日本のテレビクルーとしては、
初の中国孤児取材に旧満州国エリアに入りました。 -
中国孤児の報告・報道特集
氷点下30度という極寒の地で、「パパ、ママ」と片言の日本語で、日本にいるであろうお母さんやお父さんを思う孤児の言葉に、涙が止まりませんでした。
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田英夫ベトナムレポート
高校時代に見た「田英夫のハノイレポート」に感動し
ニュースキャッスター目指して毎日放送に入りました。
夢半ばにして編成に移り、番組制作や企画に関わり、最後は地上アナログ放送のデジタル化に邁進しました。 -
私の取材した歴代総理大臣
歴代総理には取材を通じてお目に掛かりましたが、佐藤栄作氏は、「政界の団十郎」と言われたように、
金屏風の前で輝いていました。 -
私の取材した歴代総理大臣-2
小泉は変人で切れ者、福田は官僚、麻生はアホウ、鳩山は宇宙人で単なる馬鹿、、菅はいらカン、野田は短すぎた、安倍は狸、どの総理もフットした人なし。
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